【この記事は 2009/11/16 に追記してます。】
日曜の15時半頃、富山を出発して東京に向かいました。
← これは、14日の虹です。
・・・おお!虹だぁ~♪
久々に見れてヨカッタよかった!!
ってな事を思ってました。
(2009/11/14 15:29 撮影)
お次は、富山ICから高速に入ったとたんでした。(^^♪
・・・高速で車止めるわけにもいきませんものネ・・・で、目に入ったPAに急遽飛び込んでパチリです。
(2009/11/15 15:41 撮影)
・・・高速で車止めるわけにもいきませんものネ・・・で、目に入ったPAに急遽飛び込んでパチリです。
(2009/11/15 15:41 撮影)
久しぶりに・・・いや!何十年ぶりに・・・ひょっとしたら、こんなにぶっとい「虹」はここ40年位見てなかったかもです。
完全なアーチでした。(^^♪
完全なアーチでした。(^^♪
さらに、走って。。。横川「峠の釜めし」
富山から3時間位走ったですかネ・・・、この先関越道は渋滞30kmとの情報でしたので・・・この辺りで「渋滞のピークをやり過ごすか」ってなことで・・・腹ごしらえデス。
もう、知ってる人が少なくなってきたんですか・・・^_^;
「おぎのや」は1885年(明治18年)に荻野屋として創業(横川駅の開業と同時。なお、高崎〜直江津間が全通したのは1893年(明治26年))。
峠の釜めしは、1958年(昭和33年)に発売された[1]。発案は、おぎのやの社員(後に副社長)の田中トモミ。この頃「おぎのや」は業績が低迷していたが、峠の釜めしがヒットを飛ばし、その後の隆盛へとつながるきっかけをつかむ。発売同年には、天皇の富山国体への行幸列車へ積み込まれた。1967年(昭和42年)にはテレビドラマのモデルになったこともあり、峠の釜めしは全国でも有名な駅弁の一つと数えられるようになった。
その後、モータリゼーションの進展を受けて、各地の駅弁業者は軒並み苦戦を強いられるようになる。しかしおぎのやは、1962年(昭和37年)にこれを逆手にとって国道18号沿いに「峠の釜めしおぎのやドライブイン横川店」を設置した。そこで釜めしなどの商品をドライバーに販売することで、鉄道への依存を減らした。
現在では長野駅・上諏訪駅など長野県内の一部主要駅や、山梨県にある清里駅、上信越自動車道横川SA上り線、長野新幹線「あさま」の車内販売にも進出している。他にも碓氷峠鉄道文化むら園内や土曜日、日曜日、祝祭日に限り、埼玉県の熊谷駅などでも出張販売される。
なお、新幹線の車内販売では新鮮さを保たさせるため、高崎・軽井沢間の両駅に停車する列車のみ販売されている。また、全国各地の百貨店での駅弁大会の常連でもあり、現在は横川駅での売上は総売上の1%にも満たない[要出典]。
信越本線横川駅〜軽井沢駅間の廃止前日となった1997年(平成9年)9月30日には、史上最多の販売個数(9000個以上)を記録した[要出典]。同日放映のニュースステーションなど、報道番組でも峠の釜めしが取り上げられた。
峠の釜めしを考案したといわれる田中トモミは、現在全国で講演活動を行っており、1988年に「天からの贈り物」で日本エッセイストクラブ賞を受賞している。
釜飯の容器は益子焼で、窯元つかもとで製造されている。
(WikiPediaからの転載です。)
峠の釜めしは、1958年(昭和33年)に発売された[1]。発案は、おぎのやの社員(後に副社長)の田中トモミ。この頃「おぎのや」は業績が低迷していたが、峠の釜めしがヒットを飛ばし、その後の隆盛へとつながるきっかけをつかむ。発売同年には、天皇の富山国体への行幸列車へ積み込まれた。1967年(昭和42年)にはテレビドラマのモデルになったこともあり、峠の釜めしは全国でも有名な駅弁の一つと数えられるようになった。
その後、モータリゼーションの進展を受けて、各地の駅弁業者は軒並み苦戦を強いられるようになる。しかしおぎのやは、1962年(昭和37年)にこれを逆手にとって国道18号沿いに「峠の釜めしおぎのやドライブイン横川店」を設置した。そこで釜めしなどの商品をドライバーに販売することで、鉄道への依存を減らした。
現在では長野駅・上諏訪駅など長野県内の一部主要駅や、山梨県にある清里駅、上信越自動車道横川SA上り線、長野新幹線「あさま」の車内販売にも進出している。他にも碓氷峠鉄道文化むら園内や土曜日、日曜日、祝祭日に限り、埼玉県の熊谷駅などでも出張販売される。
なお、新幹線の車内販売では新鮮さを保たさせるため、高崎・軽井沢間の両駅に停車する列車のみ販売されている。また、全国各地の百貨店での駅弁大会の常連でもあり、現在は横川駅での売上は総売上の1%にも満たない[要出典]。
信越本線横川駅〜軽井沢駅間の廃止前日となった1997年(平成9年)9月30日には、史上最多の販売個数(9000個以上)を記録した[要出典]。同日放映のニュースステーションなど、報道番組でも峠の釜めしが取り上げられた。
峠の釜めしを考案したといわれる田中トモミは、現在全国で講演活動を行っており、1988年に「天からの贈り物」で日本エッセイストクラブ賞を受賞している。
釜飯の容器は益子焼で、窯元つかもとで製造されている。
(WikiPediaからの転載です。)