今日も都内プラプラの成果を
何度もこの辺りは通りかかっていましたが・・・気付かなかったですワ。
矢代 操
藩校進徳館で学び、維新後、貢進生に選ばれ後に大学南校を経て司法省法学校に進む。卒業後、法律系出版社時習社を設立、また法律学校である講法学社の幹事となる。ここで留学から帰国した岸本辰雄、宮城浩蔵と知己となり、1881年に明治法律学校を創立した。同年に元老院書記官、1890年に貴族院書記官となったが、1891年に39歳で死去。
明治大学の創立者の中で39歳という若さで亡くなっており、他の2人に比してあまり目立たないのは、このためでもある。