「吉原」考・・・浅いけど。(^^ゞ

「吉原」  
男の子ならきっと知っている。

かつて、東京に21年間も住んでいて、ブーメランしてから早や2年。
飲んだ時の話題には何度もなったが・・・
いまだ「吉原」に足を踏み入れた事はなかった。ホントです、天地神明に誓って・・・イメージ 5

なので、行ってみた。

その前に概要を。
起 源
江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生した。「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説がある(葦=悪しに通じるのを忌んで、吉と付けた)。いずれにせよ、徳川家康の隠居地である駿府城城下に大御所家康公認の公娼があり、そこに七カ丁もの広大な面積を誇る遊郭があった。吉原はその内五カ丁を大御所家康亡き後駿府から移したのが始まりである(二丁町遊郭)。

明暦の大火(1657年)で日本橋の吉原遊廓も焼失。幕府開設の頃とは比較にならないほど周囲の市街化が進んでいたことから、浅草田んぼに移転を命じられた。以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原(略して吉原)と呼ぶ。江戸城の北に当たるところから「北国(ほっこく)」の異名もある。(Wikipediaより転載)

まぁ、色々と書いてありますが、要は・・・
徳川家康さんが江戸城に来た時、駿府(静岡)にあった遊郭を江戸に連れて来たってことですね。
で、一旦は日本橋に造ったのだけど火事で焼けてしまったのと市街化されてたのでそこでの再建は止めて、当時はまだ田んぼの真ん中だった浅草方面で再建したって訳ですな。

小船を仕立てて、山谷掘りをゆらりゆらりと~♪ 吉原へ

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(↑ クリックして大きくすると読み易くなります。)

いいですね(^^♪ 江戸情緒だねぇ♪


そのお堀は埋め立てられて今では公園になってます。↓
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こんな風になってたんです。遊郭の周りは「おはぐろどぶ」で囲まれてました。
出入り口はただ一箇所の「大門」です。
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楽しんだあとは、遊女に送られて・・・鼻の下を長く伸ばしたおじさんが振り返った場所

「見返ると、まるで遊女が別れを惜しんで手をふっているかのように見えるという柳の木です。」だそうです。イメージ 7
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実は、そうとうこのページで勉強させていただきました。吉原再見 です。吉原について探究心が湧いた方は一度ご覧下さい。



今では、日本一のソープ街になっている。

【風適法の施行】
1948年に施行された「風俗営業取締法」は、1984年に公布された改正法により、大幅に内容が改正された「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(1985年2月13日施行)」となり、ここにおいて性風俗営業の営業地域が大幅に制限されるに至った。特に個室付き浴場、個室マッサージ、モーテル類等(トルコ風呂、ソープランドの類)は事実上人の活動する区域においては営業が不可能となったが、同法律を受けて東京都が施行した「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例」においては、吉原の実情などを考慮し、「特例地域」として、現行の建物を使用する限りは営業を継続出来ることとなった。従って新規にソープランドビルを建設して営業することは不可能であるが、現行の建物を改装等して継続使用する限りはソープランドを経営することが出来る。

かつて、都内では「新宿区歌舞伎町の一部」及び「豊島区北池袋[4]の一部」にも同様の特例措置が執られていたが、現在は条例の改正によってソープランドの特例処置は台東区千束四丁目の16番から32番、41番から48番に限られている。(Wikipediaより転載)

・・・特例措置、ねぇ。イメージ 6
確かに、お店は多かったデス。しかも昼間見るとバラックに近い建物も多かった様に感じます。まぁ、夜は暗いし、派手な照明当てれば見映えはしますね。
どの店の前にも昼間なのに白のワイシャツにネクタイをキリット締めてダークスーツを着込んだお兄さんが居ます。が、その敷地からは一歩も出てきません。ただただ声を掛けるのみです。まぁ、この辺りは躾が行き届いているって印象です。

・・・とりあえず個人感情を排して目に留まった様子を書き記しました。(^^ゞ