私小説家 嘉村磯多 のこと。

ふと思い出した。(暇なのでね。)
 
昨年、2018年の11月4日・・・ボ〜ッとTVを観ていた。
今じゃ何の番組だったか思い出せないけど、「山口県のどこやらで、嘉村幾多の生家を保存している云々」と。
 
へぇそうですか、いいことじゃないですかね、的に流していたんですが・・・
 
ん、嘉村!? 居たな知り合いに。おお彼も山口だ。
 
携帯にメールした。「嘉村幾多さんは縁者さんなのですか?」
返事が来た。「本家です。」と。 
 
そういえば、彼も文学少年ならぬ文学おっさんだったなぁ。
定年退職後は自分史を書くとかと宣っておられたが、上梓されたのかな。

でもって、東京・神楽坂あたりの「矢来町」でなくなった、てか。
今の仕事仲間に矢来町在住者が居るなぁ、聞いてみよう。
 
イメージ 1
 

嘉村が生きていた当時は、駆け落ちしたことや愛想の悪さから、地元の評判は良くなかった。しかし礒多は望郷の念を生涯忘れなかったという。「私は都会で死にたくない。異郷の土にこの骨を埋めてはならない」 礒多は随想「『上ケ山』の里」で、そのように記述している。
実家はまだ当時のままに保存されており、地域住民の働きかけによる保存運動が活発になっている。2010年(平成22年)11月には生家が「嘉村礒多生家」として整備され、観光拠点となっている。なお「礒多が餅」なる嘉村にちなんだお菓子も販売されている。
なお、駆け落ち相手の小川ちとせは嘉村の死後、18歳年下の男性と再婚しているが、周囲には旦那より1歳年下と年齢を誤魔化しており、しかも周囲の人間はそれに気付かなかったという逸話も残っている。ちとせは再婚後も礒多の作品を世に出すことに努めた。ちとせは戦時中に下松市の実家松永家に礒多の未発表作品を預けたが、その未発表作品は結局、戦災で焼失した。
山本夏彦はコラムで複数回嘉村について触れている。また高島俊男は自らの室号「羸鶴」を、嘉村の『足相撲』(師の葛西を扱ったもの)という作品から取っている。高島はコラムで「嘉村礒多なんて今の人はご存知あるまいが、昭和初期の私小説作家で、貧乏と病気の隊長みたいな人である」と述べている。古田博司は嘉村には全集もあるが、身の回りのこと一辺倒の作品で、葛西同様に日本文学史の闇に消えたと評している。大内力は嘉村の『途上』を、梶井基次郎 『檸檬』や牧野信一 『鬼涙村』とともに、昭和文学史上に残る作品であろうと評している。
 
1933年昭和8年)11月30日、結核腹膜炎のため東京市牛込区矢来町(現・東京都新宿区矢来町)の仮寓(中村武羅夫邸)で死去。
Wikipediaより無断転載 m(_ _)m )