本郷もかねやすまでは江戸の内

先日のお昼、
本郷三丁目に蕎麦を喰いに行ったおり、目に留まった案内版です。

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場所は、下の地図の+印のところ。
上の説明書きが小さくて読みづらいので下方に
でっかく貼付けました。


詳しい地図で見る

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享保15年、大火事が起こり、復興する際、大岡忠相は本郷の「かねやす」があったあたりから南側の建物には塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許した。このため、「かねやす」が江戸の北限として認識されるようになり、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳が生まれた。なお、1818年(文政元年)に江戸の範囲を示す朱引が定められたが、これはかねやすよりはるか北側に引かれた。(wikipediaより)


江戸市中の北限が「かねやす」という店までという意味の川柳です。
もっとも市中の定義はあいまいで、この定義だと下町の浅草は市中じゃありません。この川柳は都会人を気取った江戸人が線引きしたものとされます。』

なるほど、江戸人ってのは粋ですねぇ。
今風に言えば・・・

本郷っちゃぁ、田舎だけどよぉ・・・
まあ、かねやすの大店までは江戸ってことにしといてやろうかえ、
なぁ、とっつぁんよ。