雨降りの「水都・大垣市」をほんの少し歩きました。【同期会】

どこの街に行っても必ずと言っていいほどキャッチフレーズがありますね。
ここは『水都』だそうです。
(知らなんだな。)

事前の予定では、この街の住人が先導し、水都大垣の街中を散策してその歴史なぞを訪ねると言う高尚な趣向でしたが・・・雨降りの日曜日になってしまいました。 【 街中マップ 】

そうなると、根性の無い爺様集団は「サッ! 帰ろうか。雨の中歩くのもナンジャロシ・・・」と意味不明の言葉を銘銘に吐いて尻が上がりません。

さっ! アーケード沿いに少し見て帰ろうぜ。


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大垣駅の南を南下する広い通りがあります。両側の歩道は屋根架けられてます、いわゆるアーケードですね。「美濃路」と称する通りです。

今日はこの通りの商店街による「元気ハツラツ市」が開催されとの事ですが・・・



イメージ 8この雨は・・・
恨めしいですね。

お母さんたち、ガンバってね。









大垣城趾です。

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織田氏、斎藤氏と支配権が移った後、1583年(天正11年)に池田恒興が城主となり、1588年(天正16年)に一柳直末によって若しくは1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛が城主の時に改築が行われ、天守が築かれたとされる。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には、当時城主であった伊藤盛宗は西軍に属したため、石田三成らが入城して西軍の根拠地となる。その後、西軍本隊は関ヶ原に移動、城内には福原長堯らが守将となって残るが、関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城。そのときの逸話が『おあむ物語』として残っている。
江戸時代に入り、徳川家康譜代大名として石川康通を城主にし、その後1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となった。(Wikipediaより)

あまり・・・ぱっとしない感じですね。

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この前に古い、今では閉め切られたお店・・・洋装店ですかね、そこのショウウィンドウに取り残されてた「ファッション誌」??

永井 秀樹(ながい ひでき、1971年1月26日 - )は大分県出身のサッカー選手。 長崎県国見高校卒、国士舘大学中退。日本フットボールリーグFC琉球所属。
甘いマスクで人気を博した。ポジションはMF。(Wikipediaより)


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大垣名物は何かと訪ねたら・・・
水まんじゅう
だと答えた。

水饅頭
くず粉を用いて作った透明の生地で餡を包んだ夏季の生菓子。水仙饅頭とも言う。そのまま器に盛って食べるのが一般的だが、冷水に浸して食べるものもある。「水饅頭(水まんじゅう)」の名称では岐阜県大垣市のものなどが知られるが、全国的には「葛饅頭」の名称のほうが一般的である。(Wikipediaより)


幾多ある「水まんじゅう」本舗の一つだそうです。

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水まんじゅう           おいもごろごろ
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「おいもごろごろ」って、最初見たとき・・・「おもいでぽろぽろ」かと思っちゃった。
どちらも素朴なスィートでした。

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因に、


と、言う事だそうです。

中部地方限定の「東海テレビ」のみでの放送の様ですけど、ご覧下さいませ。

西川きよしのご縁です」
で放送されます。








そうそう

名古屋駅の「駅きしめん」、食べてきました。 こちら