検証 シベリア抑留 --- 白井久也 --- 新書本

『東京ダモイ』を読み終えた後、「シベリア抑留」という事柄に何も知らない事に・・・おののいた。
なので、何か読んでみようと。

何せ大きなテーマなので、書物はあまた有る。
でも、こちらの受け入れキャパはそんなに無い。
先ずは、この辺りからだ。

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上っ面だけど、この書をベースに第二次世界大戦を概観すると・・・

日本は中国(満州)、東南アジアでの権益を確保すべく戦争に突入。
その前に、当時のソ連とは「日ソ中立条約」を締結していた。
(1941年4月13日、期間5年で締結。 ← 特段の事がなければ、1946年4月までは「有効」だ。)

第二次世界大戦終盤には日独伊三国同盟の枢軸国のうち、伊は1944/9/8に、独は1945/5/7に連合国に無条件降伏し、日本だけが戦を続けていた。

1945年7月26日 ポツダム宣言が発せられる。
ポツダム宣言は、ポツダム会談での合意に基づいて、米国、中華民国および英国の首脳が、1945年7月26日に大日本帝国に対して発した、第二次世界大戦(太平洋戦争(大東亜戦争))に関し、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言。

ソ連は後から加わり追認した。宣言を発した各国の名をとって、「米英支ソ四国共同宣言」ともいう。
1945年8月9日午前零時、極東ソ連軍がソ満国境を越えて侵入。
 これを日本の「関東軍」が迎え撃ったが兵力、装備ともに劣弱になっていた関東軍は壊滅され、
 軍人と軍関係者がソ連軍の捕虜となった。
 (ソ連に抑留された軍事捕虜の数、多い順にドイツ 2389千人、日本 639千人・・・
   にものぼるそうだ。)

1945年8月14日 日本、ポツダム宣言受諾

1945年8月15日 玉音放送

1945年9月2日 米国戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印

スターリン独裁政権によって、ソ連国内は『収容所列島』と言われるほどの多くの「強制収容所ラーゲリー)」網を作り上げていた。

そして、
極寒と飢えと重労働のシベリア抑留が・・・
その数、日本人 約64万人。

1946年12月8日 ソ連より抑留日本人の引き揚開始

1949年6月27日 シベリア引き揚げ再会
    ↑ 中断されていたんですかね?
1956年12月26日 ソ連より最後の引き揚げ船「興安丸」が舞鶴港に入港。
(同書年表より抜粋。)

約64万人のシベリヤ抑留捕虜
この地で命を落とした「日本側の推定」人数、5万数千人。
ソ連から提供された死亡者名簿は4万1千人。この内氏名や埋葬地が確認できたものは3万2千人。

まだ多くの英霊が名前も埋葬地も判らないままさまよっている。

そう言えば・・・
中学校の理科の先生で、満州子(ますこ)という方が居られたな。満州生まれだと言っていた。
年月とともにこんな事柄が疎くなるのかな・・・




著者 白井久也(しらいひさや)

1933年東京生まれ。早稲田大卒業後、朝日新聞社入社。1993年定年退職

発行日 2010年3月15日 初版 第一刷
発行所 株式会社平凡社