今日は・・・・沖縄「慰霊の日」

沖縄旅行の記録をせっせとやっているが・・・なかなか進まない。
 
でも、今日は6月23日、 「沖縄慰霊の日」
今まではそんな日が有る事すら知らなかった、と言うか・・・ニュースでは流れていたのかも知れないけど記憶に留まらなかった。
  

沖縄は23日、戦没者を悼む「慰霊の日」を迎えた。66年前、太平洋戦争末期の沖縄戦で奪われた20万を超す命。激戦地の沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)にある平和祈念公園では、「沖縄全戦没者追悼式」(県、県議会主催)が行われた。
午前11時50分からの式典には、菅直人首相や仲井真弘多知事らが出席。
今年が2回目の出席となった菅首相は、あいさつで「東日本大震災原発事故という未曽有の困難のなかで慰霊の日を迎えることに特別な感慨を覚える。二度と悲惨な戦争を経験してはならない。いまなお沖縄には米軍基地が集中しており、慚愧(ざんき)に堪えない。今後、沖縄の負担軽減と危険性除去への取り組みに最大限努力する」と語った。
仲井真知事は平和宣言で「依然として強いられている過重な(米軍)基地負担の大幅軽減、危険な普天間飛行場の一日も早い県外への移設、日米地位協定を抜本的に見直すことを日米両政府に強く訴えていく」と述べ、普天間飛行場の県内移設を目指す政府との違いを強調した。 
(今日の asahi.comより) 

 
なので、順序を変えて・・・今日はこちらを整理しました。
 
沖縄旅行の最終日(6月17日)は、沖縄本島南部への『観光』   
 
首里城  旧海軍司令部壕  ひめゆりの塔  平和祈念公園  おきなわワールド
 
のコースだ、行ってみたかった場所。
 

 
第二次世界大戦の終盤に、アメリカを主力とする連合国軍は日本本土への上陸を目論んで徐々に日本本土近くへ戦力を展開してきました。
その戦略で、千島列島側からではなくフィリピン・台湾側から進行して来た。
 
そして、「九州上陸の前線基地」として沖縄本島を狙い、ジャブを放しつつ、1945年4月1日怒涛の米軍が嘉手納町読谷村に上陸・・・「沖縄戦」のはじまりです。
 
対する日本の大本営は、沖縄で時間を稼ぐべく、牛島司令官並びに長参謀長の率いる「32軍」を沖縄に配備してその任に当たらせた。
 
沖縄戦は1945年3月26日から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月23日に終るはずが3日早く6月20日に終了した。米軍の作戦目的は本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であり、日本軍のそれは当時想定されていた本土決戦への流れの中に位置づけられる。(Wikipediaより)
 
沖縄戦」での激戦地区は、上陸地点から当初32軍司令部があった首里までの地域だったそうです(中部・首里戦線)。
司令部が現・糸満市摩文仁に遁走?した南部方面は、米軍側から見れば「掃討戦」だったそうです。沖縄県人(・・・その頃は「琉球人民」と言っていたのかも知れない。)の多くが巻き添えになった。
 

旧海軍司令部壕

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この司令部の司令官「大田實海軍少将」が自決の直前に海軍次官宛に打った、沖縄県民の献身的作戦協力について訴えた電文があります。 
機会or興味があったらジックリと見られたし。
 
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この日の定期観光バスのガイドさん・・・名前も忘れたし、写真も無いんですが(抜かったな。) 南部戦線について切々と訴えていました。
この場所の説明の時などは、目に涙さえ浮かべて・・・
もしかしたら、ご関係のお身内が居られたのかも知れません。
 
涙腺のすっかり弱くなった爺も・・・嗚咽と共に涙が堪えられませんでした。
・・・無念だったろうなぁって、献花 200円です。そうしないではおれませんでした。

今日、慰霊の式典が行われた「平和祈念公園」                    (沖縄県糸満市摩文仁

 
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6月23日に向けて 
準備が進められていました。 
 
「菅さん、これるのかなぁ???」 って思ってましたが 
しぶとく出席して打(ぶ)ちましたネ。 
 
 
 
 
 
 
 
今日のニュースを見ると、これに「火」が入れられてました・・・平和の火。
(何でも、この地下に世界の平和の火の火種が保存されているそうです。)
 
 
朝日が昇りくる真東方面です。
 
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振り向くと・・・その延長線上の左右に
「平和の礎(いしじ)」が並んでいます。
 
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合 掌 
 
「平和の礎」詳しくは沖縄県のHPで。