まったく脈絡は無いのですが・・・ここのところ、都内をうろついてますと色んなものが目に入ってきます。歳のせいもあってか、歴史にもロマンを感じ?ます。
・・・もっとも、最近は「歴女」(れきじょ)って言葉もあって若い女性層にも受けているようですが^_^;
・・・もっとも、最近は「歴女」(れきじょ)って言葉もあって若い女性層にも受けているようですが^_^;
ただ、ボクの場合は短い間でしたが北海道・札幌生活で生まれた、開拓への興味と言いますか・・・驚きといいますか・・・そんな事が「昔の人々が積み上げた事柄」に目が行くようになったような気がしてます。
それでも流石は「江戸」ですね、時の日本の中心地!!・・・全国各所の「縁」が埋まってます。
ネットで検索してみますと・・・
義貞さんは群馬県は太田市に生まれ、やや浮沈はあったものの、新田家はこの地の有力な武家だったそうです。
鎌倉幕府倒幕に大きな役割を果たしたそうで、その戦いの一つ「分倍河原の戦い」(1333/5/15~16)の史実を後世に伝えるため、この像を建立したとありました。(東京都府中市HPより)
その後は、なんだかややこしいのですが・・・新政権・室町幕府が完全に成立する前のゴタゴタで争いとなり、北陸に後退する中・・・福井市新田塚と言うところで討ち死にとなったそうです。(かなりアバウトですがそんな事のようです。)
義貞さんは群馬県は太田市に生まれ、やや浮沈はあったものの、新田家はこの地の有力な武家だったそうです。
鎌倉幕府倒幕に大きな役割を果たしたそうで、その戦いの一つ「分倍河原の戦い」(1333/5/15~16)の史実を後世に伝えるため、この像を建立したとありました。(東京都府中市HPより)
その後は、なんだかややこしいのですが・・・新政権・室町幕府が完全に成立する前のゴタゴタで争いとなり、北陸に後退する中・・・福井市新田塚と言うところで討ち死にとなったそうです。(かなりアバウトですがそんな事のようです。)
群馬で生まれ、福井に没する・・・移動手段は自分の足しか無かった時代、遠くまで行っ討ち死にする図は、現代の「転勤」で、遠く生まれ故郷を離れたところで没するの図に共通するような・・・気がします。
ここで、墓所「称念寺」の詳細が見れます。称念寺ホームページ
ここで、墓所「称念寺」の詳細が見れます。称念寺ホームページ
ここのお寺さんは、上の年表にもありますが・・・ここで話題にしたい「柴田勝豊」さんの甥っ子にあたる「柴田勝重」さんの墓所です。まぁ~「越前・丸岡つながり」ってことで・・・(^^♪
「丸岡城」(別名「霞ヶ城」とも)は、我が故郷・・・福井県坂井市丸岡町にあります。
で、この城を造ったのが戦国武将「柴田勝家」の養子「勝豊」なんです。
福井県坂井市のホームページに説明があります。 → 丸岡城
これよりもっと詳しく研究して紹介してる方が居られます。 → kみむさんのホームページ
で、この城を造ったのが戦国武将「柴田勝家」の養子「勝豊」なんです。
福井県坂井市のホームページに説明があります。 → 丸岡城
これよりもっと詳しく研究して紹介してる方が居られます。 → kみむさんのホームページ
さて、柴田勝豊さんですが・・・
柴田勝家の姉の子で、甥っ子。後に勝家の養子となりました。このお寺の勝重さんのお父さん勝政も同じように勝家の養子でした。が、どうやら二人の仲は宜しくなかったそうです。勝家が勝政をえこひいきしていたようです。
柴田勝家の姉の子で、甥っ子。後に勝家の養子となりました。このお寺の勝重さんのお父さん勝政も同じように勝家の養子でした。が、どうやら二人の仲は宜しくなかったそうです。勝家が勝政をえこひいきしていたようです。
織田信長の筆頭家来である柴田勝家が北の庄(福井城)に入城し、支城の丸岡城を造り守っていたのが勝豊で、後に織田信長が本能寺の変で亡くなったあと清洲会議で勝家が長浜城を所領、ここに勝豊が移った。今風で言うと・・・本家(福井)から遠くに飛ばしたとの見方もあるようです。
時はさらに流れ、あの秀吉と柴田勝家の覇権争いが始まり、その決戦「賤ヶ岳の戦い」で、わが勝豊は秀吉方に「寝返った」とされています。
時はさらに流れ、あの秀吉と柴田勝家の覇権争いが始まり、その決戦「賤ヶ岳の戦い」で、わが勝豊は秀吉方に「寝返った」とされています。
養父・勝家に冷遇されていたとはいえ、秀吉に寝返った武将として後年の評価は高くない。しかし、勝豊の守る長浜城と長浜城下について
1.秀吉が築いた城であり、秀吉には城の造りが手に取るように分かる点
2.秀吉が長年に亘って治めていたため、戦になった場合に領民が秀吉に加勢する可能性がある点
3.勝家の本拠越前国から遠く離れた飛び地として敵地に孤立しており、籠城したとしても援軍を
期待できない点
の諸点を鑑みれば、無用に将兵に被害を出さずに城を明け渡すという穏当な判断は、一国一城の大将として評価できるものである。
一方で、病床にあった勝豊は、賤ヶ岳の戦いにより勝家の命が風前の灯であるのを聞くと、「私の命ももはやこれまでである。一城の主とまでなることができ、自分自身には思い残すことは何もない。だが、今ひとつの心残りがある。それは、父上をお助けすることができなかったことである。願わくば秀吉めの首を取って、父上のもとに届けたかった…」と、涙ながらに側近に語ったといわれている。 (「Wikipedia」より)
1.秀吉が築いた城であり、秀吉には城の造りが手に取るように分かる点
2.秀吉が長年に亘って治めていたため、戦になった場合に領民が秀吉に加勢する可能性がある点
3.勝家の本拠越前国から遠く離れた飛び地として敵地に孤立しており、籠城したとしても援軍を
期待できない点
の諸点を鑑みれば、無用に将兵に被害を出さずに城を明け渡すという穏当な判断は、一国一城の大将として評価できるものである。
一方で、病床にあった勝豊は、賤ヶ岳の戦いにより勝家の命が風前の灯であるのを聞くと、「私の命ももはやこれまでである。一城の主とまでなることができ、自分自身には思い残すことは何もない。だが、今ひとつの心残りがある。それは、父上をお助けすることができなかったことである。願わくば秀吉めの首を取って、父上のもとに届けたかった…」と、涙ながらに側近に語ったといわれている。 (「Wikipedia」より)
で、このお寺のお墓の主、勝重さんは・・・
だ、そうです。秀吉の天下になっても生き延びて・・・家康の世になっても領地を与えられ・・・
上手に世を渡ったようです。
上手に世を渡ったようです。