三島駅から南伊豆までの道のり・・・下田の港 【同期会】

9月19日から21日まで、三島駅から南伊豆までは下図の道のりを往復しました。

イメージ 14

上の画像は、Yahooドライブの画像をキャプチャして貼り付けたものです。本物は、ここをクリック して下さい。

宿泊は「休暇村 南伊豆」です。

イメージ 1
     全国の国立公園・国定公園に36か村。やすらぎの公共の宿 休暇村
財団法人休暇村協会が運営してます。
「南伊豆」のHPです。→ http://www.qkamura.or.jp/izu/qpage01.html
お風呂も綺麗で、露天風呂もあって、そうだ!エステもあって・・・なかなか寛げますよ♪

イメージ 2
(↑)宿の南側は「弓ヶ浜」の海が見れます。イメージ 12(↓)北側には大きな森
イメージ 3

21日は、「了仙寺」に立ち寄り

詳しくは、了仙寺のホームページ でご覧下さい。
イメージ 13

あと何日か経つと紅葉が綺麗なんでしょうね。
イメージ 4

ペリーロードの途中にあった喫茶店「草画房」でコーヒーブレイク・・・!?

「ペリーロード」とは、一口で言うと・・・ペリーさん一行が、港から了仙寺までを行進して行き来した道、だそうです。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/taguchifamily/20090921/20090921094221.jpg https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/taguchifamily/20090921/20090921094033.jpg

この建物が気になって・・・気になって、ネットで調べまくってました。
どうやら単なる「喫茶店」ではないようです。『ギャラリー&カフェ』だそうです。しかも、平日は開いてないようです。
イメージ 5

あれ!まぁ~、福井の生まれ。しかも金沢美術工芸大の講師まで務めておられる絵と書の先生のご自宅だったんです。
 竹沢 尚生(タケザワ ヒサオ) 女性
プロフィール1956年福井県生まれ。 1984年より静岡県下田市の「草画房ぎゃらりぃ」にて創作活動をする傍ら、絵と書の教室「草画房」を主催。 1997年より金沢美術工芸大学の講師を務める。 1998年横浜京急百貨店「墨の祭典」に中国の作家たちと共に参加。同年10月恵比寿ガーデンプレイスにて個展。 2000年日本橋高島屋にて「墨と器」展開催。

ボクより・・・六つ若い・・・そう言えば、女性の方がお二人でお店を(?)をやってました。
で、このお店の中庭で、白い彼岸花を・・・見っけ!です・・・趣あったなぁ ^_^;
イメージ 6

ペリー上陸の埠頭に出る直前に見た彼岸花・・・崖の雑草の中に咲いてました。
イメージ 7


鎖国の終焉・・・開港の地

 1853年7月アメリカのペリーさん御一行艦隊が浦賀沖に投錨して開港を迫った。江戸市中では「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」と狂歌で揶揄っているように右往左往だったんでしょうね。
 この時、江戸幕府は第12代将軍家慶の病気を理由に一ヵ年の回答猶予を取りつけた。が、しかし・・・家慶さんは直後に亡くなり、これを一旦香港に引き上げていたペリーさん聞きつけ、ここぞとばかり半年を経ずして1854年2月に再来。 『ファイナルアンサー!?』 とでも迫ったのでしょうか・・・
ついに、3月31日付けで「日米和親条約」締結、下田港箱館港の開港である。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/taguchifamily/20090921/20090921095109.jpg https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/taguchifamily/20090921/20090921095040.jpg

開港以降、次のお寺がいろんな要所として登場します。
 玉泉寺:米人休息所に指定されたお寺。

 宝福寺:日米和親交渉にあたり、日本全権の本陣となり、下田奉行所が置かれていた。

 「唐人お吉」は、ここで登場します。
奉行から、ハリスさんの侍妾(じしょう)として送り込まれた挙句、アメリカ人の妾になったと言う事で、それ以降人々に疎まれ、51歳で自らの命を絶った・・・と言う物語のヒロインです。

 了仙寺日米和親条約で決められなかった具体的な条約の交渉場所となった。

その後、横浜が開港されるまでの5年の間、下田が偉人の闊歩する町として賑わったんでしょうね。

下田の観光案内はここ下田ばなし が良いかもですよ。