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宿泊は「休暇村 南伊豆」です。
全国の国立公園・国定公園に36か村。やすらぎの公共の宿 休暇村
財団法人休暇村協会が運営してます。
「南伊豆」のHPです。→ http://www.qkamura.or.jp/izu/qpage01.html
お風呂も綺麗で、露天風呂もあって、そうだ!エステもあって・・・なかなか寛げますよ♪
あと何日か経つと紅葉が綺麗なんでしょうね。
この建物が気になって・・・気になって、ネットで調べまくってました。
どうやら単なる「喫茶店」ではないようです。『ギャラリー&カフェ』だそうです。しかも、平日は開いてないようです。
ペリーロードの途中にあった喫茶店「草画房」でコーヒーブレイク・・・!?
「ペリーロード」とは、一口で言うと・・・ペリーさん一行が、港から了仙寺までを行進して行き来した道、だそうです。この建物が気になって・・・気になって、ネットで調べまくってました。
どうやら単なる「喫茶店」ではないようです。『ギャラリー&カフェ』だそうです。しかも、平日は開いてないようです。
あれ!まぁ~、福井の生まれ。しかも金沢美術工芸大の講師まで務めておられる絵と書の先生のご自宅だったんです。
鎖国の終焉・・・開港の地
1853年7月アメリカのペリーさん御一行艦隊が浦賀沖に投錨して開港を迫った。江戸市中では「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」と狂歌で揶揄っているように右往左往だったんでしょうね。この時、江戸幕府は第12代将軍家慶の病気を理由に一ヵ年の回答猶予を取りつけた。が、しかし・・・家慶さんは直後に亡くなり、これを一旦香港に引き上げていたペリーさん聞きつけ、ここぞとばかり半年を経ずして1854年2月に再来。 『ファイナルアンサー!?』 とでも迫ったのでしょうか・・・
ついに、3月31日付けで「日米和親条約」締結、下田港と箱館港の開港である。
開港以降、次のお寺がいろんな要所として登場します。
玉泉寺:米人休息所に指定されたお寺。
宝福寺:日米和親交渉にあたり、日本全権の本陣となり、下田奉行所が置かれていた。
「唐人お吉」は、ここで登場します。
奉行から、ハリスさんの侍妾(じしょう)として送り込まれた挙句、アメリカ人の妾になったと言う事で、それ以降人々に疎まれ、51歳で自らの命を絶った・・・と言う物語のヒロインです。
奉行から、ハリスさんの侍妾(じしょう)として送り込まれた挙句、アメリカ人の妾になったと言う事で、それ以降人々に疎まれ、51歳で自らの命を絶った・・・と言う物語のヒロインです。
了仙寺:日米和親条約で決められなかった具体的な条約の交渉場所となった。
その後、横浜が開港されるまでの5年の間、下田が偉人の闊歩する町として賑わったんでしょうね。
下田の観光案内はここ下田ばなし が良いかもですよ。